令和5年 第6回日本舞踊 未来座 =最(SAI)=

令和5年度 第6回日本舞踊 

未来座 = 最 SAI =

舞姫コラム

column

第1回 「日本の文化・芸能の創始と舞姫の始まり(1)」

神と芸能のかかわり・鯰絵と春日若宮おん祭り

まず、「舞姫」と「舞」に纏わるお話をしていく前に、我が国の文化や芸能における歴史と経緯をお話ししましょう。

 

私たち日本の国の文化の源、とりわけ芸能には、科学とは無縁の精神世界とそれを象徴する神話が大きく関わっていることはご存知でしょうか。現代は科学の発達した時代でありますし、見えもしない、現実にあるかもわからないような神話の世界など、信じるに値しないと考えている方も多いことでしょう。

 

しかし、例えば、時代的に近く、また少しだけ身近なところでお話しをしますと、江戸時代の一般的な庶民の家の天井には「鯰絵(なまずえ)」という絵が飾られていて、それを飾ることで地震被害が防げると本当に信じていた経緯があります。現代では地震はプレートの歪みや活断層によるものであることは明らかですが、江戸時代の人々は、本気で地震は地中深くに住む大鯰が動くことで発生し、それを茨城県の鹿島神宮の神、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)、そして千葉県の香取神宮の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)、が神力を持って抑えているからこそ地震から守られていると本気で信じていたのです。

 

また、両神宮には、鯰を押さえつけていると言われる「要石(かなめいし)」と呼ばれる不思議な石が今もあり、現在でも多く信仰されていますが、それでも非科学的と言えばその通りかも知れません。しかし、現代だからといって何でも科学で解決できるものではありませんし、大げさに言えば、逆に大鯰がいないと誰が証明できるでしょう。むしろ、そう信じていた江戸の人々にはどこか心の余裕のようなものが存在し、自然と共に想像を膨らませていたことを考えれば、現代の殺伐とした現実主義的な生き方よりもむしろ豊かだったのかもしれません。因みに鹿島神宮の神様は、奈良時代、藤原氏によって平城京鎮護のため白鹿に乗り、現在の茨城県、鹿島神宮から、奈良県にある春日大社へ分祠され、それ以降、共に連れて来られた鹿たちは、奈良では「神鹿」として今でも大切にされています。

 

さて、その春日大社では、太古より現在まで途切れることなく続く祭りがあり、その祭りは我が国の芸能の始源に大きく関わっています。その祭りの中心となるのは春日大社の子神を祀る摂社、若宮の神、天押雲根命(あめのおしくものみこと)が、一年に一度、「御旅所(おたびしょ)」と呼ばれる春日大社の境内にある臨時のお社に一晩だけお移りになるという祭りで、その際、若宮の神が元の社に戻るまでの二十四時間の間に、代々日本の芸能者は必ず御旅所の前にある芝の舞台(「芝居」の語源になったとも言われています)で、各種芸能を奉納することになっており、雅楽の演奏や舞楽の舞、また申楽(能楽)を中心に1136年、凡そ12世紀から今まで途切れることなく続けられてきました。この祭りの名を「春日若宮(御)おん祭り」と称し、現在は12月に毎年行われています。

 

さて、この祭りは単に古い民俗芸能と分類するだけでは済まない、我が国の「生きた芸能史」とも呼ばれる重要な祭りとして存在します。この祭りには、舞楽はもちろんのこと、室町時代には申楽能を大成させた観阿弥やその子息である世阿弥、他にも現在の能楽の流派の祖先や、歌舞伎の創始者として知られる出雲阿国も小さい頃に風流踊りの一員とし参加していたとも伝わり、中でも、その昔、春日の神が松の木に降臨し萬歳楽を舞ったとされる松の木の前では、この祭りに参勤する申楽(能楽)、田楽、風流、舞楽など、すべての芸能者が、必ずその松の木の前で芸を奉納してから春日大社へ入るしきたりを守る「松の下式」と呼ばれる行事が行われますが、その神が降臨したという松の木こそ、全国の能楽堂に描かれている鏡板(歌舞伎や日本舞踊では松羽目と呼びます。)のモデルとなった松の木(現在は切り株のみ残る)なのです。

このように、我が国の文化の源、とりわけ芸能の源には、必ず私たち日本人の祖先達が大切にしてきた心の拠り所とも言える、見えないものの存在があり、それは「神」という存在として長く歴史や伝統の中で脈々と受け継がれてきました。また、その「神」との交流や信仰が芸能として行われてきた代表的な象徴として今も存在し続けるのが、春日大社や伊勢神宮など、全国で伝承される巫女神楽や獅子神楽を含む里神楽(さとかぐら)であり、また今も尚宮内庁楽部により伝承される御神楽(みかぐら)なのです。

古事記と神楽の創始

 

この神楽の始まりは、我が国に現存する最古の歴史書『古事記(こじき)』に書かれた神話による神々の物語の中で、「神楽」とその「舞」の始まりの神話として書かれています。この『古事記』の成立は、和銅5年、712年に宮中に仕えた太安万侶(おおのやすまろ)が編纂した全三巻、天地開闢から推古天皇までを記載した壮大なもので、宮中の官職、大舎人(おおとねり)を勤めていた稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習し、太安万侶に伝えたとされます。

 

その中の一節に「天岩屋戸(あめのいわやと)」のお話しがあります。その内容は、我が国の始まりは、男神とされる伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と女神とされる伊邪那美命(いざなみのみこと)が協力して国造りと共に、両神の陰陽和合により「八百万(やおよろず)」の神々を誕生させたことになっていますが、伊邪那美神命が、火の神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を産んだことで火傷を負い、まだ神々が行き来ができた死者の世界、黄泉の国へと旅立ち、その後、再生を願い迎えに出掛けた伊邪那岐命と、見られてはならない姿を見られてしまった伊邪那美命の悲しい決別があり、私たちの世界は、現世と彼の世を分けられたのだと語られています。その後伊邪那岐命が穢れを払うため海水で左目を洗い生まれたのが、太陽神の女神、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、続いて生まれたのが月と夜の男神、月読命(つくよみのみこと)、そして最後に生まれたのが、大海原を治める男神、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)でしたが、須佐之男命まだ見ぬ母神、伊邪那美命を慕い、いつまでも泣き叫んでいたと言われます。その暴れる様は、自然現象としての台風とも解釈されていますが、須佐之男の乱暴はそれに収まらず、姉神である天照大御神を常に困らせ、それでも天照大御神は、弟神の須佐之男をかばいます。

 

しかし、天照大御神の織屋に須佐之男が馬の皮を剥いだ血まみれの馬を織屋の屋根の穴から落としたことで織女が死んでしまい、ついに天照大御神は怒り天岩屋戸に引き篭もり岩戸を閉じてしまいます。すると、たちまち世の中は闇に包まれ真っ暗となり、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が蔓延る暗黒の世界となってしまいました。そこで高天原に八百万の神々が集まり、知恵の神、思金神(おもいかねのかみ)の発案で、女神、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)に「桶伏せ」と言って、その後、能舞台や日本舞踊で使用する所作台のような、足を踏み鳴らし願望を叶え穢れを祓う神事を行うための桶の底を舞台とし、天宇受賣命は神懸かりして激しく足を踏み鳴らし、また妖艶に舞ってみせたのです。これが我が国の神楽の始まりであり、そして「舞」の始まり、また、女神である天宇受賣命は、神楽の舞を初めて舞った「舞姫」となったわけです。

 

主催・お問い合わせ

公益社団法人 日本舞踊協会

03-3533-6455(平日10時~17時)