令和5年 第6回日本舞踊 未来座 =最(SAI)=

令和5年度 第6回日本舞踊 

未来座 = 最 SAI =

舞姫コラム

column

第2回 「日本の文化・芸能の創始と舞姫の始まり(2)」

神と芸能のかかわり・鯰絵と春日若宮おん祭り


天宇受賣命の神楽の舞を見た八百万の神々は、皆々「咲ひき(わらった)」とされ、この「わらい」とは所謂「笑い」のことで、また、「咲」と「笑」は実は同意語であり、我が国では、今でも「笑い神事」が全国各地の神社に残るように、生きることの象徴として笑うことを神格化し大切にしてきた経緯があります。それは能楽面においても翁面の顔が笑顔であることに象徴されるように、例えば「花が咲く」とは生命が膨らむことを意味し、また「笑う門には福来る」という言葉も笑うことで幸福を得るというある種の神事的意味を持った言葉なのです。また俳句の季語では、春の山に草木が萌え、色彩豊かに花が咲いている様子を「山笑う」と表現したり、特に女性の名前でも「咲」と書いて「えみ(笑)」と読ませたりするのも、私たち日本人が古来笑いと生命の繋がりを重んじ、それを神格化してきたことの象徴でもあります。また、実は我が国の舞の概念は、音楽のリズムと身体表現のみを捉えた西洋的な思考によるの単なる「Dance(ダンス)」のようなものとして解決できない深い思想が存在することもまた明らかと言えるでしょう。
ところで、神話のこの後の続きをもう少しお話しますと、岩屋戸に隠れていた天照大御神は、八百万の神々が天宇受賣命の神楽の舞に大いに笑っていることを不審に感じ、少しだけ岩戸を開き、天宇受賣命に「何故、お前は楽をなし、八百万の神々は咲(笑)うのか?」と訊ねると、天宇受賣命は後に三種の神器の一つとなる「八咫(やた)の鏡」を天照大御神に向けて差し出し、「あなた様より優れた神が出現したので、皆それを喜び楽を成しています。」と答えるのです。そこで天照大御神は、鏡に写った自らの姿に驚き岩戸を出た瞬間、力持ちの神、天手力男神(たじからおのかみ)が岩戸を投げ飛ばし、すぐにしめ縄で岩戸を塞ぎ、この世は正常に戻り、天照大御神も復活したというわけです。

楽と舞の持つ意味

さて、『古事記』の岩屋戸のエピソードには、もう一つ大切なキーワードが登場しています。天宇受賣命の神楽の舞を、天照大御神は「楽」と表現していますが、この「楽」こそ「舞」を行う本当の意味を表す言葉であり、我が国の芸能が果たしてきた役割とその意味を象徴する言葉であると言えるものなのです。言わば【舞=楽】であり、かつ「楽」は人を癒し生命の力を復活させる意味があることも理解できるでしょう。例えば「音楽」とは、我が国では「音の癒し」という意味であるし、我が国の芸能史を辿って見ても、実は古代より神事や宮中行事に至るまで、およそ式典やそれに付随する宗教的行事に纏わることを源とする芸能には、必ず「楽」の文字が配されていることにお気づきでしょうか。例えば、古代では「舞楽(ぶがく)・雅楽(ががく)」、そして、聖徳太子の時代に渡来した幻の仮面芸能「伎楽(ぎがく)」。また奈良から平安時代にかけては「散楽(さんがく)」。そして、鎌倉から室町時代にかけては「申楽(さるがく)※後の能楽」や「田楽(でんがく)」というように、全てにおいて「楽」の文字が使われています。しかし、なぜかこの中に歌舞伎は含まれていません。その理由として、近世、江戸時代に始まる歌舞伎は、当初から庶民の芸能であり、信仰や宮中文化や国家鎮護などとは無縁であったからと考えられます。また、ここには、はじめは寺院の僧侶の余興として起こり、やがて安土桃山時代から江戸時代にかけ都を中心に流行し、歌舞伎の源流をなしたとも言われる芸能「風流(ふりゅう)」もやはり含まれていません。実は、我が国は、古来「舞」と「踊」とは別次元に扱ってきた経緯があり、驚くことに明治時代に至るまで、我が国には「舞踊」という言葉も領域も存在しなかったという事実があります。因みに、歌舞伎は「歌舞伎舞」とは言わず「歌舞伎躍(踊)り」であるし、風流も「風流躍(踊)り」で、どちらもその始まりは民衆の中で生まれ、どちらかというと民間性が強いものは「躍(踊)り」とされるのですが、この「舞」と「躍(踊)」の違いと「舞踊」なる言葉の発生については、次回お話することにしましょう。

稗田阿礼と猿女君

さて、少し話を戻し『古事記』における「天岩屋戸」における我が国の神楽舞の創始についてお話すると、太陽の神、天照大御神は女神であり、そうした女神や高い位の女性のことを古来我が国では「日女(ひめ)」と呼び、天照大御神も別名に、「大日女(おおひるめ)」とも呼ばれていました。これは古く中国では高い位にある女性を「姫(ひめ)」、男性を「氏(うじ)」と称していたことに由来しますが、我が国においては族長や皇女などに「姫」と同じ意味を持つ「日女」や「比売」などと記述し「ひめ」と称し、とりわけ女神等の名前に用いていたようです。さらに、話を戻しますと、そもそも「古事記」を誦んだとされる稗田阿礼ですが、普通宮中の大舎人は男性の官職であるとされますが、稗田阿礼は女性であったとも言われ、また岩屋戸の前で神楽の舞を舞った天宇受賣命の子孫であるとされています。そして稗田氏は、代々宮中で舞を司る家系と言われ、宮中ではそうした舞を舞う女性を「猿女君(さるめのきみ)」と呼び、神社の巫女や巫女舞の子孫になったとされているほか、一説には、その後能楽の前身をなす「猿(申)楽」に通ずるとも言われているのです。

舞と姫


こうして考えてみると「古事記」を通し、我が国の舞の創始、天宇受賣命による神楽の舞、言わば「舞」の始まりには、天照大御神、天宇受賣命、また稗田阿礼を通じた猿女君といったように、高い位や巫女の始祖を象徴する「姫」の存在が大きく関わっていることがわかります。また、実は「舞」は、今までお話をしてきた経緯から考えてみても、神事やその後胤にあたる朝廷文化に関わるものであることも想像できたかと思います。しかし、地域や伝承によっては、「神楽」を「舞う」ではなく「踊る」と呼称する地域もあり、それはそれで間違っていると指摘するべきものものではないのですが、これまで本稿でお話をしてきた経緯を考えてみれば、やはり神楽は「舞う」ものであり、また同じように考えてみれば、現在までも「能楽」では「踊り」ではなく「舞う」であるということや、舞楽はなおのこと「舞う」のであって「踊り」ではないという細かな分類ができるかと思います。さて一体その違いとは何か?そして、どのような区分ができるのか、さらに、我が国には「舞」と「踊」、双方別々のジャンルが古来存在し、「舞踊」なる言葉も明治に至るまで存在しなかったということについても、次回「姫」や「日女」などの呼称の繋がりから浮かび上がる邪馬台国の女王「卑弥呼」の存在を中心に、さらに「舞」と「姫」に関わるお話としてさらに進めることにしましょう。
それでは、次回をお楽しみに。

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