令和5年 第6回日本舞踊 未来座 =最(SAI)=

令和5年度 第6回日本舞踊 

未来座 = 最 SAI =

舞姫コラム

column

第3回 「卑弥呼と舞姫」

さて、前回までのお話の中に、「姫」は、我が国においては、高貴な位の女性を表す総称として用いられていたことをお話しました。また、古代中国、周やそれ以降の国でも、王女や公女など高い位にあった女性を「姫」と称しており、それが我が国に伝わったものであると考えられます。さて、我が国の古代史に登場する邪馬台国(やまたいこく)の「卑弥呼(ひみこ)」も女王と称される存在ですが、古代中国に由来する意味では、やはり、所謂国家元首としての女王ではなく、恐らく王女か公女である貴族の女性という位でしかなかったかもしれません。それは当時まだ発展途上の段階ですらなく、小国同士が互いに争いを繰り返していた時代の我が国では、凡そ統一国家たる王女は存在していなかったことがわかります。さて、古代史における未だ解決されていない邪馬台国の存在と場所は何処にあり、またその国の女王、卑弥呼(ひみこ)は、日本列島の何処にいたのでしょうか。邪馬台国の所在地については、今でも九州説と大和説など諸説あり、国の名前も、また卑弥呼の存在も様々に解釈され、未だ謎に包まれている部分も多く古代日本史のロマンすら感じるところですが、邪馬台国と卑弥呼がいた時代は、凡そ2〜3世紀、西暦100〜200年頃の日本の何処かで、古代中国の歴史書で「三国志」の中にある、魏の国の歴史が書かれた「魏志」の中に「倭(わ)人伝」の記述があり、「倭」とは、当時の日本の国名を指す言葉であると考えられ、「倭国の人」なので「倭人伝」というわけです。そういう意味では、我が国はそもそも「日本」ではなく、「倭国」と呼ばれていたことがわかりますが、「倭国」は一つではなく、凡そ30からなる連合国のような形で存在していたようです。因みに「日本」の名称は、凡そ古代中国では唐の高宗帝の后で、高宗帝亡き後一時「武周」という国名に改めた中国史上唯一の女帝、則天武后(そくてんぶこう)の時代、則天武后は、様々な古い慣習を変更させたと言われ、実は皇帝を「天皇(てんこう)」と変更した点など、我が国の歴史にも重要な人物ですが、凡そその時代、「日本(ひのもと)」は、7〜8世紀の頃から呼称されたとも言われるもので、ちょうどその頃の我が国は、古墳時代から飛鳥時代の急速な発展期にあった点を鑑みても、ある意味で則天武后は、我が国のルーツを解き明かす一つのキーワード的な存在かもしれません。

 


ところで、その倭国の一つと考えられる邪馬台国ですが、はじめは男性の王がいたようですが、争いが絶えず、そこで女性であり、また「巫女(みこ)」であった卑弥呼が国を収めることになり、そのおかげで一時争い事も治まったとされているのですが、まず卑弥呼は「巫女」であるということも重要な意味があると言えます。前回までにお話していた我が国最古の歴史書である「古事記」に記述された神話の中で、我が国初の舞姫とも言える「天宇受賣女命(あめのうずめのみこと)」は、「楽」なる、所謂「神楽舞」の始祖であり、また巫女の始祖でもあるわけで、我が国の「舞」の始まりは、言わば「巫女」から始まったわけです。したがって「舞」は単なる音楽と身体表現からなる「Dance」の意味ではなく、限りなく限定された宗教的、かつ儀式的な意味を始源に持っている巫術であることもわかります。さて、「魏志」倭人伝の記述を見ると、卑弥呼のことについては「鬼道(きどう)に仕え、よく衆を惑わす」と書かれ、また人前に出ることはなかったとされ、凡そ一国の女王というイメージからはかけ離れた存在であったこともわかります。また「鬼道」とは古代の巫術と考えられることから、卑弥呼は巫術を使う巫女が主たる役割であり、王女と呼べるものかという疑問と同時に、我が国のリーダーたる王の基本的な理念として、宗教的な神官また巫女のような巫術を伴う「巫(かんなぎ)」と呼ばれるものが概念として優先されることも我が国の王、言わば現在の天皇の子孫を考える意味でも意義深いものであることがわかります。そして邪馬台国をはじめ、当時の倭国が巫女を王とした国家体制であったことがわかります。また、卑弥呼は倭国を代表するという意味で、当時の古代中国の王朝、魏に勅使を派遣し、「親魏倭王」の金印を賜ったというのも日本史などでよく出てきます。

 


さて、こうした古代における我が国の成り立ちの中に君臨した巫女、卑弥呼については、「姫」という名称と深く関係している事実があります。それは卑弥呼が普段呼ばれていた名前なのですが、実は「姫御児(ひめみこ)」や「姫児(ひめご)」とも呼ばれていたようで、「卑弥呼」の字を書いても「ひめこ」とも読むことができるほど、「姫(ひめ)」の名で敬称されていたことがわかっています。また、卑弥呼が率いた邪馬台国については、現在も九州説と大和説があり、その真相は未だ解決できてはいませんが、もし大和説の立場で考えてみると、奈良県三輪地方に鎮座する大神神社(おおみわじんじゃ)の前にある大きな古墳、箸墓(はしはか)古墳は、卑弥呼のもの?または、一説には、卑弥呼と同等視されている「日本書紀」にも登場する倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓ではないかとも言われています。やはりそこには「姫」の文字が登場し、倭迹々日百襲姫命は、卑弥呼と同じく巫女的要素が強い皇女として伝えられているのです。因みに、この箸墓古墳や大神神社は、大化の改新を題材とした文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎の「妹背山婦女庭訓」ゆかりの地としても有名ですが、兎に角も「姫」の敬称で呼ばれる我が国の始祖は、卑弥呼であるとも言えるのではないでしょうか。しかし、ここで一つの疑問が湧くのですが、「卑弥呼は舞を舞ったのか?」という疑問が湧いてきます。実は、卑弥呼が舞姫だったのか、それを示す明確な資料は全くないのが現状です。実は卑弥呼の存在は、不思議なことに我が国の歴史書である「古事記」や「日本書紀」に全く記述が存在しないのです。しかし、卑弥呼ではないか?と一説には同等視されている、倭迹々日百襲姫命が巫女的要素が強い点、また卑弥呼も巫女であったということを考えても、恐らく巫女舞のようなものを行っていた可能性は大いにあるのではないかとも考えられるでしょう。

 


したがって、我が国における「姫」の始まりとして、第一のその始祖をあげるならば「卑弥呼」であって、「舞」の始祖をあげるならば、確かに「天宇受賣命」をあげることができますが、「卑弥呼」はまさに「姫」の始祖と言え、とにかくも古代の歴史に生きた「卑弥呼」と「天宇受賣命」こそ、舞姫の元祖と呼ぶに相応しい存在と言えるでしょう。
次回は「舞」についてお話をして参ります。

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