令和5年 第6回日本舞踊 未来座 =最(SAI)=

令和5年度 第6回日本舞踊 

未来座 = 最 SAI =

舞姫コラム

column

第7回「白拍子とは何か」

さて、今回からは凡そ平安時代から鎌倉時代、そして室町時代に登場する舞姫のお話をして参りましょう。

歌舞伎や日本舞踊作品の中で、室町時代以前のお話を中心に、「白拍子(しらびょうし)」と名乗り、舞を披露する舞姫が登場しますが、とりわけこの「白拍子」で有名な舞姫には、歌舞伎舞踊や文楽でも上演される「吉野山(よしのやま)」に登場する「静御前(しずかごぜん)」や、能楽「道成寺」に登場する「白拍子」、また、歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)」に登場する「白拍子花子」等が有名です。しかし、これら「白拍子」とは、歴史や文化、思想的に、私たち日本人にとって一体どのような存在だったのでしょうか。


例えば、能楽作品はもちろん、日本舞踊でも大作として有名な「道成寺(どうじょうじ)」を例にお話しをしますと、昔、奥州白河から遠く紀州熊野詣にやってきた安珍という若い僧と、地元の娘、清姫との間に起こった悲劇からずっと後の世、道成寺には、鐘の中に身を隠していた安珍を鐘ごと焼き尽くした清姫の恐ろしい伝説以後、鐘を吊ると再び清姫の怨霊が出現するとして鐘を吊ることができず、しかし、このたびようやく新しい鐘を吊ることとなり、そのお祝いの日の事。鐘供養があると聞いたので舞を披露しに来たという美しい白拍子と名乗る女性が道成寺にやって来るというのが「道成寺」前半のお話しです。実は、その白拍子こそ、清姫の怨霊であったという恐ろしいお話なわけですが、ここに登場する「白拍子」というのは、平安時代末期から鎌倉時代にかけ、そもそもは、これまでもお話をしてきたように神事に関係する巫女舞の系統と、また、古く日本に伝来した外来芸能で、演劇的な猿楽(さるがく)や傀儡(くぐつ・かいらい)と言って人形使いを生業とした芸能者の原点となった「散楽(さんがく)」の系統に加え、民間における主に大道で舞を披露した「傀儡女(くぐつめ)」などの遊女の類を始まりに持つ系統等、主にその三種の系統が融合した形で発展した舞とその芸能者を指し、初めは女性だけでなく神事系統から発展した男性の白拍子も存在していたようです。しかし、歴史上有名な白拍子といえば、やはり女性の舞姫が主であることは間違いないでしょう。


さて、その「白拍子」の芸とその舞はどのようなものであったのでしょうか。

白拍子の舞は、例えば鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡(あずまかがみ)」や、南北朝から室町時代初期に成立したと考えられる「義経記(ぎけいき)」など、日本の古典文学の中にも登場する、儀式性や宗教性を持ちながら芸妓などの性格を持った舞のことで、例えば、静御前(しずかごぜん)は、有名な鎌倉、鶴岡八幡宮での白拍子舞が有名ですが、その舞の特徴は、静御前が歌を「数えた」とも言われており、すなわち白拍子舞を「謡う」という意味で、数を数えるような調子で謡い舞うものが「白拍子舞」であったことがうかがわれます。

また、白拍子といえば、先ほどお話をしました「京鹿子娘道成寺」の白拍子花子事清姫の怨霊が有名ですが、その白拍子が舞う舞もまた「歌を数えるように謡いながら舞う」ものであり、その様子は能楽「道成寺」はもちろん、歌舞伎舞踊でも作品の前半で白拍子舞として再現されています。


しかし、不思議なことに、能楽「道成寺」や歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」に登場する白拍子の舞では、本来の白拍子の舞の基本ともなる、「言葉を一定の節で数えるように謡いながら舞う」のは、最初だけで、途中から「乱拍子(らんびょうし)」が挿入されていますが、実は、源流としては、「白拍子」と「乱拍子」は、そもそも異なる舞の事で、能楽や日本舞踊では「白拍子」の舞事の中に「乱拍子」があるものの、少なくとも平安時代から鎌倉時代には、独立した「乱拍子」という舞が存在し、その言葉通り「乱拍子舞」とは、鼓の音を乱調に鳴らし、それに応じ緩急をつけた足拍子で舞うもので、「白拍子」の特徴である一定の調子で数えるように謡い舞うものとは違うものであったようです。

また、「白拍子」の「白」とは、拍子と旋律の事であり、その節を指すもので、さらに鼓や銅製の楽器、「鈸拍子(ばちひょうし)」で拍子のみをとりながら舞うことから「白拍子」と称され、凡そ平安末期に、その始祖とされる「磯禅師(いそのぜんじ)」という舞姫が登場する以前は、山中や街道にもあった古くは人形を扱った「傀儡(かいらい)」からでた「傀儡女(くぐつめ)」の舞に原点があるようです。それら「傀儡女」たちは、その当時の流行歌であった「今様(いまよう)」を歌い舞っていたようで、「傀儡女」や「白拍子」の舞、また南北朝の時代から室町時代にかけて流行した「曲舞(くせまい)」等も、そもそもは神事から派生し、その後民間における生業となり、またそれを舞う舞姫たちの妖艶な舞は、やがて舞によって人を魅了する芸妓の祖先ともなったわけです。


さて、「白拍子」とその舞の始まりを更にお話ししますと、凡そ鎌倉時代から南北朝の時代に生きた、吉田兼好(よしだけんこう)が著した「徒然草(つれづれぐさ)」の中に、その始まりが書かれていて、文中には、藤原通憲(ふじわらのみちのり)なる貴人が出家し、法名を信西(しんぜい)と称し、その信西が良い舞の手順を選び、「いその禅師」という女性に教えたとされ、これが「白拍子舞」の始まりとされています。因みに、その「いそ(磯)の禅師」なる舞姫の娘こそ、「静御前」であることも記録されています。また、白拍子舞を舞う装束は、平安貴族の代表的な装束である白い「水干(すいかん)」に、つばのない短刀「鞘巻(さやまき)」を差させ、本来は当時の男性の象徴とも言える「烏帽子(えぼし)」を頭に乗せ舞わせたとされています。


また、「白拍子舞」を考案したとされる信西とは、凡そ平安時代後期、藤原氏の貴族で、宮中に伝承されていた舞楽や散楽などを明細に記録した人物でもあります。したがって、恐らく「白拍子舞」は、凡そ宮中における儀式性の高い、現在でも宮内庁楽部が伝承する「舞楽」の舞、また能楽や歌舞伎の原点とも言える猿楽を含む宮中楽部や演舞などを含む「散楽」の要素を継承し、かつその扮装が、「男舞(おとこまい)」と称した貴人の男性の姿であることから、白拍子舞は、女性による男装、言わば「男装の麗人」であったこともわかります。また、その後、近世江戸時代のはじめ、京の都で「いざやかぶかん」と男装の麗人として「かぶき躍り」を披露した歌舞伎の始祖と称される「出雲阿国(いずものおくに)」が、なぜ男装だったのかということも、ここでお話をした「白拍子の始まり」とその舞を紐解いていくことでよく理解できるのではないでしょうか。


次回も、更に「白拍子」とその舞姫についてお話を進めていきます。

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