令和5年 第6回日本舞踊 未来座 =最(SAI)=

令和5年度 第6回日本舞踊 

未来座 = 最 SAI =

舞姫コラム

column

第8回「白拍子と曲舞(くせまい)」

静御前の白拍子舞

さて、今回は、前回の「白拍子」とその舞の始まりから、更に具体的な舞姫のお話をして参ります。
歴史上悲劇のヒーローとも言われる源義経(みなもとのよしつね)の愛した白拍子「静御前(しずかごぜん)」は、前回もご紹介した「義経記(ぎけいき)」によれば、鎌倉方に狙われた六条堀川の夜討ちのエピソードで、土佐坊正尊(とさのぼうしょうぞん)が、義経の屋敷を襲ってきた際、静御前が、異変を察知し、夜襲を事前に知らせたことでも有名です。その後、義経が現在の大阪市北区、摂津渡辺津(せっつわたなべのつ)から船出した際、暴風雨が起こり船出を断念。これは後に平家の猛将、平知盛(たいらのとももり)の怨霊の起こしたこととも伝わり、それを戦国時代に観世小次郎が能楽作品としたとされ、また歌舞伎や日本舞踊でも「船弁慶」として今も上演される人気曲ですが、その渡辺津を旅立つ前に、能楽や歌舞伎舞踊でも上演されるように、静御前は義経から京へ戻るよう促され、泣く泣く、古代中国の故事にあて、舞を舞うシーンがあります。一方船出した義経も知盛の亡霊の起こした暴風雨に阻まれ、結局尼崎に漂着。「義経記」によれば、義経一行は、吉野山の衆徒を味方にすべく、吉野に向かうことになり、その際静御前とも再び別れることになり、義経の家来を警護につけ金銭を預けたものの、その警護の家来に金品を奪われ静御前は山中をさまよい、その道すがら吉野の御嶽の縁日に、伊勢の白拍子や近江猿楽などが出勤し法楽の舞を奉納しているところで、人の進めもあって舞を披露したところ、静御前と知れてしまい、吉野の衆徒に捕まってしまうのです。伝承では、静御前は、その後鎌倉方に捕まり、義経との子を宿したまま鎌倉に引かれ、生まれてきた子は殺され、さらに源頼朝の妻、北条政子の所望により、鎌倉の鶴岡八幡宮の舞殿で、白拍子の舞を披露させられる場面は「吾妻鏡(あずまかがみ)」にあり大変有名です。その際、静御前は、
「賤(しず)や賤 賤の苧環(おだまき)繰り返し 昔を今になすよしもがな」
「吉野山峯の白雪ふみわけて 入にし人のあとぞ恋しき」
の二首を白拍子の舞で舞ったところ、頼朝の怒りを買ったとされていますが、その舞は、まず歌を読み上げ、拍子を数えるように舞うものであったとされています。前回でもお話をした白拍子舞とは、「長々と数え上げるように舞う」もので、例えば我が国の国歌、「君が代」がありますが、実は「君が代は」で始まる歌は古来多くあり、「今様(いまよう)」と呼ばれる当時の流行歌のような和歌に数多く詠まれ、「国歌」の原型となった和歌も、10世紀の天皇や上皇が直接命令し作成した勅撰(ちょくせん)和歌集、「古今和歌集(こきんわかしゅう)」の中にある、「読み人知らず」、言わば誰が詠んだかわからない和歌が原型と言われ、「君が代」の言葉に込められた想いは、舞姫が歌い舞を披露する相手を「言祝ぐ(ことほぐ)」、いわば言葉によって幸運を祈願する祈りでもあり、「君」とはまさに舞を鑑賞する相手、言わば「あなた」という意味のことであったものが、近代明治時代以降、西洋の影響も受け国歌へと整備されていったわけです。また「義経記」にも、静御前は義経を思い、頼朝や北条政子の前で、公然と「君が世の」と謡い、白拍子舞を舞ったとも書かれていて、静御前の義経を思う切ない感情が伝わってきます。このように、白拍子舞をはじめ、我が国の舞の根本的な意味と目的が、まず言葉が先行し、その言葉が深い意味を持ち、そこに数えるがごとく歌として謡いあげることで、舞そのものに「人を想い願う」祈りの意味が付随されていくわけで、「舞」もまた「歌」も、その概念は、西洋音楽の作曲理論とは全く異なることも理解できます。そして、日本の音楽が近代の文明開化に至るまで、能楽や歌舞伎、また日本舞踊までも、まず言葉、詩もしくは物語、さらに必ず祈りの儀式性を残し、それらを先行させてきた歴史的経緯を持っていることも理解できるでしょう。

祇王と祇女 仏御前

さて、白拍子には静御前とは別に、平安時代末期、栄華を極めた平氏の棟梁、平清盛(たいらのきよもり)に寵愛された京・堀川の白拍子、「祇王(ぎおう)」、そしてその妹、「祇女(ぎじょ)」が、鎌倉時代の軍記物語である「平家物語」に登場しています。物語には、京都一の白拍子であり、また舞姫と評判の祇王は、平清盛に最も寵愛を受けた存在でしたが、同じ白拍子であった「仏御前(ほとけごぜん)」にその座を奪われ、さらに妹、妓女と共に、清盛と仏御前の前で白拍子の舞を舞うよう強要され、その後嵯峨野で二人共に出家し祇王寺(往生院)の尼となり、またさらに仏御前も世の無常を悟り、祇王、祇女のもとへ行き出家することになるというお話が残されています。はじめは儀式や神事に纏わる舞姫の役割が、時代と共に、舞を見せる目的や役割が、「平家物語」や、静御前のように「義経記」などで描かれ、白拍子もエンターテイメント化していき、悲劇のヒロインとしての舞姫となり、やがて芸妓としての役割へと移行していく過程が窺われます。あくまでも物語の登場人物ではありますが、京都嵯峨野の祇王寺には確かに三人の白拍子、舞姫の痕跡が今も静かに残されています。

女曲舞と乙鶴

さて、白拍子舞から発展し、主に14世紀の半ば、南北朝の時代からは「曲舞(くせまい)」という舞がありました。別に「久世舞(くせまい)」とか「舞々(まいまい)」等とも呼ばれ、とりわけ中世、室町時代に、観阿弥(かんあ(な)み)とその子、世阿弥(ぜあみ)によって大成される能楽にも大きな影響を与えたとされ、女曲舞の「乙鶴(おとつる)」は、観阿弥に曲舞の拍子を教え、それまでの申楽にはなかったエッセンスを加えたことで、後に能楽へと大成した申楽に新しい境地をもたらしたと伝わることから、「乙鶴」も我が国の芸能の発展に大きく貢献した舞姫の一人と言えるでしょう。さて、この「乙鶴」とは、そもそも白拍子を祖とした奈良の「百万(ひゃくまん)」と言う女性の舞姫を祖とし、曲舞も初めは五流あったものが、「乙鶴」が活躍した時代には、加賀女(かがじょ)系と呼ばれる一流のみを残すのみになっていたようです。曲舞の扮装は、稚児は、水干(すいかん)に立烏帽子、男は直垂(ひたたれ)に大口袴、そして女性は長絹の直垂に立烏帽子という扮装で、その舞の様子も白拍子舞に似ていたようです。また、女曲舞の「百万」は、能楽作品にもなっていており、あらすじは、吉野にある男が、奈良の西大寺で幼き子を拾い、親と生き別れになってしまったことを慰めてあげるべく、京の都、嵯峨釈迦堂(さがしゃかど)清涼寺(せいりょうじ)で行われていた「大念仏(だいねんぶつ)」と呼ばれる大勢で念仏を唱える行事に連れて行くのですが、門前の男に面白い芸があると紹介されたのが「百万」の曲舞だったのです。しかし、その姿は、舞車(まいくるま)を曳きつつ、自らの境遇を念仏の音頭を取って謡い戯れ、そして舞い狂う姿でした。夫と死別し、子供と生き別れ、今に至るまでを謡いながら息子との再会を祈願し舞う「百万」の姿に、母だとわかる幼き子、そして最後は仏力を持って再会を果たす親子の姿が描かれています。また、この「百万」が本来白拍子系の神事に関わる舞を神道とは異なる仏事である「大念仏」で行い、さらにその舞が「男装の麗人」であり、またその姿は「狂い」であることから、江戸時代の初頭に突如京の都に出現し、かぶき躍りを踊った「出雲阿国(いずものおくに)」も「念仏(ねんぶつ)踊り」を狂い踊るものであり、白拍子や曲舞のように「男装」して舞姫たる女性が舞い、または踊る姿には、歴史上の舞姫の系譜、まさに「男装の麗人=舞姫」の姿と我が国の舞姫の系譜が鮮やかに甦ってくるのではないでしょうか。
次回は、近世の時代の「舞姫」へとお話を進めて参ります。

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