令和5年 第6回日本舞踊 未来座 =最(SAI)=

令和5年度 第6回日本舞踊 

未来座 = 最 SAI =

舞姫コラム

column

第10回「出雲阿国と舞姫の系譜 女方の登場」

出雲阿国の功績とかぶきの発展

さて、前回お話をした通り、江戸時代の幕開けと共に登場した「阿国(おくに)」とのその「踊(躍)」には、それまでの我が国における芸能が持つ、歴史的な背景である、宗教性や儀式性などは無くなり、時代を反映した不安と解放的な時風を映した「傾いて」さらに「奇抜な」、まさに「傾奇(かぶき)」な芸態が主流であり、それは京の都人ばかりではなく、新しくできた将軍の都、江戸にも大いにその評判は伝わっていきます。実は当時、阿国以外にも「女かぶき」や「遊女かぶき」など、とりわけ所謂「色を売る」ことが主眼にあったショー的要素の強い芸や集団はあったものの、阿国はそうしたものとは全く異なり、当時あり得ない男女混合の劇団であったり、かつその男女の役割が入れ替わってしまってしまう、例えば阿国が男装し、また男性は道化役や老人、また女装し女役を演じる、なんとも摩訶不思議な趣向も人気であり、また、阿国は「和尚(おしょう)」と呼ばれたリーダー役でありながら、男装の麗人として登場したかと思えば、現代で言うところの「萌え」的な娘となって登場する。それも内容はいつの時代でも人気のある「ラブロマンス」となれば、当時の人気ぶりもよく理解できるのではないでしょうか。
さて、この阿国ですが、その生涯も謎に包まれています。歴史に初めて登場する記録では、奈良、興福寺の歴代僧侶が記した日記「多聞院日記(たもんいんにっき)」に、加賀と国、共に8歳から11歳の頃の少女が、奈良県春日大社で現在でも伝承されている「春日若宮おん祭」に「風流踊り」の一員として参加したとの記録もあり、また、関ヶ原の合戦があった慶長5年(1600)7月、公家の日記「時慶卿記(ときよしきょうき)」には、「国」と、もう一人「菊」なる女性が、「ヤヤコ跳(踊)り」の芸を公家屋敷で行ったとあり、また、その踊りは、「ヤヤ子踊り」として伝わり、現在の新潟県柏崎、女谷(おなだに)に伝承される民俗芸能、「綾子舞(あやこまい)」に似た風情があったものとも考えられており、「綾子舞」の芸は当時の趣向も想像できる貴重なものとして伝わっています。
また、阿国は早くから結婚していたとされ、夫には「三十郎」とか「三九朗」、また「名古屋山三」など、諸説名が残りますが、共に、現在の京都、南座のある付近、ちょうど四条大橋の袂付近に舞台を設け、阿国は髪を短く切り、折髷に結び、さや巻という短刀さして男装し、夫は女装した上で、伝助、または猿若とも諸説ある名の者に滑稽な道化役を演じさせるという、まさに当時としても異様な構成によるパフォーマンスを行なっていたようです。そうした当時としては奇妙奇天烈な芸風も影響したのか、また人気者の宿命だったのか、所謂「アンチ阿国」もいたようで、当時の政治や経済などを詳しく記した「当代記」には、阿国を、「非好女」、言わば「不細工な女」などと評価するなど、江戸当時の男性から見た理想や常識的な女性像から著しく逸脱した阿国の評判も残されています。しかし、兎に角も超人気者で時の人であった阿国。当然様々に記録が残されているかと思いきや、阿国に関する資料は少なく、またどのように生涯を送ったかなど、ほとんど記録がないというのもなんとも伝説的な「舞姫」と言えるでしょう。さて、阿国かぶきの人気は、すぐに将軍のお膝元、江戸にも伝わり、慶長12年(1607)には、江戸へ下り江戸城内で阿国かぶきを上演した記録がありますが、その後、デビューからわずか4年で阿国の記録は突然消えてしまいます。京へ戻る途中で亡くなったとも、また、かぶきを廃業し、尼となり故郷の出雲へ帰郷したとも言われ、実際出雲大社近辺には、阿国が晩年尼僧となり過ごしたと伝わる(現在は「阿国寺連歌庵」が建つ)庵や、近くには、一般の墓跡の中に墓所も存在しますが、詳しい生涯は今も謎に包まれています。しかし、この出雲阿国も、これまでお話しをしてきた「舞姫」たち同様、まず「男装の麗人」という点で共通した要素を備え、さらに、芸能の変化として、中世から近世へは、「舞」から「踊」、そして「宗教性」を帯びた「能楽」から、「享楽性や娯楽性」を中心にした「かぶき」へと変化を遂げさせた中心人物であることは間違いなく、まさに出雲阿国は、日本の「舞姫」のスタイルを大きく変革させた革命児であったわけですが、そうした面から考えてみても出雲阿国は「踊」を象徴する、近世の「舞姫」であったと言えるでしょう。

女方の登場

 

さて、江戸時代初期に登場した「出雲阿国」は、実は歌舞伎の歴史においても、また舞台へ登場した女性の歴史においても、実に貴重な存在でありましたが、当時の「かぶき」は、現在私たちが鑑賞している歌舞伎とは随分異なるものでした。また、阿国を真似た女かぶきや遊女かぶきの流行は風紀を乱すとされ、江戸幕府は寛永6年(1629)に女性を舞台にあげ上演することを一切禁止しました。これにより、わずか26年で女性が舞台に立つことはなくなり、代わりに成人した大人の男性でありながら少年の象徴であった前髪を剃り残した美少年風の男性達による「若衆かぶき」が登場しますが、すぐに幕府により承応元年(1652)に禁止されます。それでも今度は元服した青年男子を髷もそのままに舞台へ上げた「野郎かぶき」といった、成人男性のみが舞台に立つ時代へと変化していきました。そのような意味で考えると「出雲阿国」は最後の女性の舞姫となるかもしれませんが、実は、その後も歌舞伎の歴史では、「若衆かぶき」や「野郎かぶき」の時代には、単なるショーベースから、さまざまな役を演じるために、衣裳や鬘が発展し、また動作や仕草、また衣裳の面においても、より女性らしく美しい舞姫の理想を「女方」へ求めていった歴史が歌舞伎の発展史として存在します。「女方」の始まりは、「若衆」から「野郎」の時代には、まず女性が舞台に出演することが幕府により禁じられ、美少年やイケメン男子などを舞台に登場させるようになりましたが、いくらそうした美しい男性を舞台に出しても、その陰で男色や男娼が横行し、ついに幕府からは「物真似狂言尽(ものまねきょうげんづくし)に限る」、また同時に「舞」も「踊」も、いかがわしい魅惑的な要素を持つと判断され、かぶきでは禁止となり、要するに舞台では純粋に「演劇」、「芝居」のみを行えと幕府から厳しい禁令が出されます。現在の歌舞伎は、江戸時代の中後期から明治時代以降の演劇改良運動を経て、舞台芸術として上演されるものへ発展したものですが、実は江戸時代には、こうした経緯と幕府の禁令にとり、長らく女性の役者は用いることができず、また「舞」や「踊」を幕府より禁じられたことから、「所作事(しょさごと)」や「振事(ふりごと)」と言い換え、狂言の中の一場面や変化物の狂言として上演し、当然男性だけの劇では、男性がそのまま髷の姿で女性を演じることができないことから、初めは手拭いで頭を隠したりして工夫していたものの、様々な役柄を演じるには厳しく、そのため、舞台上のみ女性になるための鬘や化粧、また衣裳が開発されていきます。その中で当然、扮装だけではなく演技にもとりわけ工夫が必要だったことから、「女方(おんながた)」という独自の役割が誕生していきます。昨今では「女形」とも書きますが、当時は「立方(たちかた)」など役割を意味する「方」の字が用いられていました。さらに時代も元禄期になり、初代市川團十郎や、坂田藤十郎など、名優が登場する「元禄歌舞伎」の時代になると、そこで普及したのが、鬘や、隈取りなどの化粧であり、また衣裳にも一層の工夫が加わり、動作や所作も、実際の女性を真似るのではなく、あくまでも男性から見て、なんとも女性らしい動きを考案させた「女方」の登場へと至ったというわけです。そして、その「女方芸」を今日まで伝承させる要因になった第一人者こそ、「初代・芳沢あやめ」という女方の歌舞伎役者で、「あやめ草」という「女方」の心えを記した芸談を後世に残しました。その後、瀬川菊之丞や中村富十郎、岩井半四郎などの名女方、所謂「立女方(たておやま)」と呼ばれた「女方」の最高位と称される名優が生まれました。

 

次回はいよいよ最終回。様々な私たち日本人の「舞姫」についてお話をしていきます。

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