令和5年 第6回日本舞踊 未来座 =最(SAI)=
令和5年度 第6回日本舞踊
未来座 = 最 SAI =
舞姫コラム
column
これまで、日本の神話や歴史に登場する数々の「舞姫」たちについてお話を進めてきましたが、「舞姫」の系譜は今もなお日本の伝統・文化の中で紡がれています。例えば、京都や東京をはじめ、全国各地には、現在でも芸妓(げいこ)や舞妓(まいこ)、また芸者(げいしゃ)や半玉(はんぎょく)といった、お座敷で舞を舞い、また踊る、そうした日本の伝統芸を披露する「芸妓・芸者」が伝承されています。諸説ありますが、一説には、そうした「芸妓・芸者」の始まりは、今からおよそ300年前の1700年代、江戸時代の京都、八坂神社周辺にあった「水茶屋」で、参拝者や街道を行き来する旅人へお茶を振る舞う茶屋で働く「水汲み女」と呼ばれていた娘たちが、歌や舞を披露し評判となり、それが舞妓や芸妓の起源であるとも言われています。そうした茶屋娘のお話では、江戸でも同じ頃に谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘「お仙」は、江戸時代のアイドルとして知られ、参拝やお茶ではなく「お仙」見たさ、会いたさに朝早く立ち会いに来る男性客がたくさんいたほどの人気で、当時は浮世絵師、鈴木春信(すずきはるのぶ)の美人画として描かれ、幕末には河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)の歌舞伎作品や、近代では永井荷風(ながいかふう)の小説になるなど、また、現代では、邦楽や日本舞踊作品でも大和楽「おせん」は演奏会や舞踊会でも多く上演されています。今も昔もアイドルの思考は、やっぱり日本の伝統的思考なのかもしれません。そうした意味では、京でも江戸でも当時の水茶屋の看板娘は、現代で言う東京秋葉原のメイドカフェのメイドや、人気グループで活躍する女性アイドルのような存在であり、ある意味「舞姫」だったとも言えるのではないでしょうか。さて、起源からお話を戻しますと、昔から人気のあった「芸妓・芸者」は、お座敷を中心に活躍した江戸時代のエンターテナーでもあり、また今も昔も、まさに人気の舞踊家でもあったわけです。それもそのはずで、単に美しいとか可愛いだけでは何にもなりませんし、舞妓や芸妓の舞や、芸者、半玉の踊りの修行は、行儀も含め大変厳しく、江戸時代を経て近代以降においては、日本舞踊家としても活躍した名舞踊家も多く生み出してきました。また、江戸時代では、有名な江戸の遊廓に「吉原(よしわら)」があり、江戸時代から歌舞伎や日本舞踊作品の題材にもよく登場しますが、「芸妓・芸者」は、所謂花魁(おいらん)など、遊女などに属する娼妓とは明確に区別されており、江戸時代を通して、その芸域は、京坂では「舞」として、また江戸や関東では「踊り」の呼称で認知され、東西を問わず、また江戸の昔より、厳しい修練を重ね、そして優れた芸を伝承し、今もお座敷を中心に活躍し継承されているのです。また、その受け継がれてきた芸は、もちろんお座敷でも披露され、また日本舞踊会などでも鑑賞することができますが、「芸妓・芸者」も我が国の「舞」や「踊」を支え続けてきた貴重な「舞姫」達と呼べるでしょう。
また、遊女と言っても、例えば江戸の「吉原」や京の「島原」などでは、「舞」や「踊」、また鼓や三味線ほか、各楽器の演奏はもちろん、書や歌まで、実に教養にも長けた優れた遊女は、「花魁(おいらん)」や「傾城(けいせい)」と呼ばれ、また有名かつ人気のあった者は「太夫(たゆう)」といった民間人としては最高位の官職の称号で呼ばれた遊女もいましたが、そうした「花魁」や「傾城」の「舞」や「踊」を拝見し楽しむことができたのは、実に限られたステータスを持つ人であり、江戸、吉原では、とりわけ「高尾太夫(たかおだゆう)」と呼ばれる最高位を表す名前も存在しました。その華やかな廓の風情は、多くの歌舞伎の題材や浮世絵にも描かれ、今でも多くの歌舞伎作品や日本舞踊作品に登場するその存在は、美しく、また妖艶で、「舞」や「踊」にもスバ抜けた才能に長けたある種の力を持っていました。そうしたことを考えると、ある意味では、「花魁」や「傾城」も「舞姫」と呼ぶべき存在であったと言えるでしょう。
さて、お話も最後となりますが、我が国、日本には、これまで紹介してきたような神話や歴史に登場した「舞姫」以外にも、全国には有りとあらゆる「舞姫」が存在します。例えば神社等で奉納される巫女による巫女神楽をはじめ、全国の民俗芸能でも、徳島を元祖に全国で踊られる「阿波踊り」では実に鮮やかにまた美しい女踊りが披露され、高知を元祖に全国の「よさこい」、秋田県の「西馬音内盆踊り」、富山県八尾の「風の盆」ほか、大阪の住吉大社、御田植神事では、芸妓や早乙女、また巫女による田舞など、それらには多くの「舞姫」が登場します。また現代では、東京の原宿で開催される「スーパーよさこい」ほか、全国の祭や民俗芸能には、実に多種多様の「舞姫」が存在しているとも言えるのではないでしょうか。
私たち現代の日本人、特に若者は、一見すると、老若男女が「舞ったり」「踊ったり」、要するに「舞踊」することに何ら抵抗はなく、音楽がかかれば、自由に身体を動かし踊り舞うことができる人がほとんどではないでしょうか。例えばYouTubeやTikTokなどを見れば、誰でも踊り、舞うことを楽しむこと、また人へ見せることができる自由な時代とも言えるでしょう。しかし、実は我が国では現代のように舞い踊ることは、長い歴史の中では、これまでお話をしてきたように、神話においても、また歴史上の「舞姫」たちをみてきても、特別な存在であり、一般の人が行うものではなかったのです。我が国では、太古より凡そ昭和ぐらいまで、例えば、原宿に出没した「竹の子族」や、マハラジャなどディスコのお立ち台など、凡そバブリーな時代までは、まだその傾向にありましたが、若い女性を中心に「パラパラ」などの踊りが流行する頃には、当時の若者を中心に踊ることが一般化し、男女を問わず人前で、祭りでもなく誰でもが自由に踊るようになってきたのは平成や令和の時代になってからでしょうか。日本では、古来舞踊する者は特別な存在であり、一般の者は、例えば祭りや盆踊りなど、特別な日や機会にしか、踊るとか、ましてや舞うなどということはなかった民族でもありました。だからこそ舞い、踊ることは、私たち日本人にとっては、実は特別なことであり、またそれを行える「舞姫」は貴重な存在であり、大げさに言えば、我が国の民族の歴史の代表者でもあったのです。しかし、今お話をしたように、現代では誰でも舞い、踊れる時代、いわば誰しもが「舞姫」になれる時代であり、そうした観点から考えて見れば、舞台で舞い、そして踊る「舞姫」には、これまでとは違った次元での更なる使命や目的が必要になるのかもしれません。
さて、このたびの未来座=最SAI=の舞台「舞姫」では、舞台上に登場する女性舞踊家による「舞姫」たちに加え、歴史と共に歩んできた男性舞踊家による「舞人」を通し、私たち日本人が「舞」や「踊」に込めてきた「想い」と「願い」が、現代の日本舞踊家によって、鮮やかに、そして生きるエネルギーとなって、舞台に表出し、見事に表現されることでしょう。それこそが、これからの「舞姫」に求められる力かもしれません。舞台「舞姫」を通し、是非、私たち日本とその民俗、そしてその尊さから、これからのグローバルな世界に向けたコミュニケーションのあり方を感じていただき、私たち日本の、そして日本人の「舞踊」、「日本舞踊」の魅力を感じていただけることに期待しています。また、11回に渡りコラムをお読み頂き、誠にありがとうございました。
この続きは、是非舞台「舞姫」でご堪能ください。