令和5年 第6回日本舞踊 未来座 =最(SAI)=
令和5年度 第6回日本舞踊
未来座 = 最 SAI =
舞姫コラム
column
踊(躍)の誕生とその芸
これまでのお話では、主に「舞(まい)」とそれを体現化させた様々な「舞姫」のお話をしてまいりました。そして、太古より巫術やその力を用い、国や民族を率い、また我が国の国家形成の中で、共に「舞」は発展し、また、それは神々ではなく人間をも魅了するものへと進化していった過程などもお話をしてきました。中でも、実は我が国には「踊(躍)・(おどり)」と言う「舞」と対になる身体表現が存在することにも触れてきました。凡そ「古事記(こじき)」や「日本書紀(にほんしょき)」などの神話に登場する「舞」の存在は古く、また、旋回動作を基本とし、巫術や儀式性、式典性を含んだ「舞」の系譜に比べ、民俗的かつ感情的な身体表現であり、また民間で伝承されてきたと考えられる跳躍動作を主とした「踊(躍)」は、長らく歴史的な書籍等に記録されることがなく、ようやく芸能として正式に記録されてくるのは、凡そ室町時代以降のことと考えられます。とりわけ、鎌倉時代からは、貴族文化から武家文化が主流となり、また、仏教や様々な芸能も宮中から民間へ広く伝播し、また更なる発展を遂げつつ進化しながら、14世紀から15世紀の室町時代にかけては、畿内を中心に大寺院や武家などに支持された「猿楽(さるがく)」が登場し、宗教性や式典性を帯びて「舞」を中心に行い、やがて、スーパースター的な存在であり、かつ「猿楽」に新しい境地としての演劇性や音楽性を採り入れた大和猿楽(やまとさるがく)の「観阿弥(かんあみ)」の登場によって、劇性を帯びた芸術性の向上に加え、また当時の巫女的性質も持ちつつ音楽的にも「猿楽」とは異なるジャンルであった「曲舞(くせまい)」の名手、「乙鶴(おとつる)」からに学んだ新しい音楽性と趣向が、猿楽とその舞を飛躍的に向上させ、そしてその子「世阿弥(ぜあみ)」は、さらにその芸を後の「能楽」たる芸術へと進化させていきました。この「舞」における歴史的な経緯は、平安時代からの「白拍子(しらびょうし)」や「曲舞」の流れから「舞」が舞台芸能へと進化を遂げた流れでもあったのですが、なぜか舞台における職能化の過程では、「曲舞」の乙鶴はじめ、白拍子舞の静御前など、優れた「舞姫」たちは、舞台芸術へと進化を遂げた「舞」の歴史からは消えてしまうのも不思議なことです。また、鎌倉時代には「猿楽」を凌ぐ人気だった「田楽(でんがく)」は、古く宮中にあった「田儛(たまい)」など、式典や儀式であった時代には「舞」であった一方、民間へと伝播し、鎌倉時代には、「猿楽」を凌ぐ人気であり「田楽能(でんがくのう)」と呼ばれ、「舞」としての芸能を確立していましたが、やがて観阿弥や世阿弥親子が率いる大和猿楽など「猿楽」に職能としての地位を奪われていった経緯もあり、各地の民俗性を次第に持って暮らしの中心であった稲作や農耕作業への信仰の中で変容していく中で、やがて「踊(躍)」の身体表現の特徴である跳躍や足踏みなど、大地を踏み願望を叶えようとする芸能へと変化していったことが考えられます。この「田楽」の歴史的な流れこそ、とりわけ各地の信仰や習俗の中で、「踊(躍)」の身体表現が祭りやとりわけ鎌倉時代以降、民間における仏教の普及やその思想から生まれ広まった「風流(ふりゅう)」とその踊り、言わば、ユネスコの世界文化遺産にも登録された我が国の「風流踊り」ができたきっかけでもあり、また、現在の「盆踊り」や各地の「踊(躍)」による民俗芸能の歴史的な流れ、さらに江戸時代初期には、そうした「踊(躍)」を用いた芸態で歌舞伎の原型を世に生み出した「出雲阿国(いずものおくに)」の登場へと至るのです。「舞」と共に「踊(躍)」の文化は、まさに「心躍る」ごとく「踊(躍)」の時代へと変化を遂げた我が国の舞踊文化の歴史を物語っているのです。
出雲阿国の登場
歴史上、東軍の徳川家康勢と、西軍の石田三成勢が激突した「関ヶ原の合戦」から3年後の慶長8年(1603)8月、阿国とも於国とも、また久二とも伝わる女性によるかぶきが、当時流行していた女かぶきの中でもとりわけ異彩を放ち大流行しました。それが「阿国かぶき」です。この「阿国(おくに)」は一切が謎に包まれた人物で、諸説ある中で、まず、出雲の出身で、出雲大社に属する巫女であったものの、京の都でとりわけ変わった趣向でかぶき興行を行い評判となる。また、そもそも阿国は、小村(中村)三右衛門なる人の娘とされ、出雲大社に所属する巫女出身だったとも言われることから出雲の阿国と言われたようで、現在でも大社からほど近い一般の墓地の中に、阿国の墓所があります。巫女と言っても大社で巫女舞を舞うのではなく、所謂「歩き巫女(みこ)」と呼ばれる各家を周り、竈門神などを祀り舞う者ではなかったかとも考えられ、「歩き巫女」には遊女的な正確もあったことから、同じく「舞」を生業としていた「白拍子」的な側面を持った女芸能者であったものと考えられます。また現代では「歌舞伎」という漢字を当てますが、阿国が評判となった頃は、平仮名で「かぶき」と書かれたり、また「傾奇(かぶき)」とも標記され、城を傾かせるほど魅力のある女性を廓では「傾城(けいせい)」と称し、これは中国の故事に由来しますが、阿国のはじめた「かぶき」もまた阿国自身もそうした魅惑性を帯びていたこともあって「傾奇」とも称されていたことが考えられます。この阿国のかぶきは、当初は、都の五条東の橋近く、または北野天満宮の東に野外舞台を作り興行したのが始まりともされ、その後、かぶきは基本的に、演劇性を帯びつつ、エンターテイメント(娯楽)として発展していくことから、神事性や儀式性を帯びた「舞」ではなく「かぶき踊(躍)」、いわば「踊り」として認知されていくことになります。さて、阿国は、はじめから「かぶき」を始めたのではなく、当初は塗笠に衣を着て、紅の腰蓑を纏い、首から鉦鼓を下げ、笛や鼓の拍子に合わせ踊る、当時、京の都でも流行していた「風流踊り」にも似た「念仏踊」なるものを行っていたようですが、慶長8年(1603)夏に、突如、当時の女性が恐らく絶対にしないであろう扮装や言葉、とりわけ男装し、女装した男性を今で言う「ナンパ」する様を見せる。また、当時日本に輸入されたばかりの最先端の楽器、三味線を使ったド派手なパフォーマンスは、新しいスタイル、言わば巫女出身でありながら巫女的な宗教性もなく、また儀式性もない、真のエンターテイナーとしての「舞姫、阿国」が生まれたわけです。
さて、次回は出雲阿国のお話の続きに加え、舞姫の系譜についてお話していきます。